当事者の考え方は、親と同様に、学歴主義・会社主義に縛られています。
「大学くらいは出ていないと」「正社員になれていないから」など、ひきこもりから脱した時点で、このようなこだわりを示す当事者は多いのです。
しかし、学歴だけで通用する時代は、過去のものとなりました。
総中流時代の大学は、入学しさえすれば、遊んでいても卒業することができました。企業社会が、社内教育しやすい「真っ白な人材」を求めていたからです。
ところが、格差社会と少子化の到来によって、大学をめぐる状況は一変しました。企業社会も即戦力を求めるようになり、質の良い卒業生を社会に送り出すことが大学の使命となりました。
「大学くらいは」が、通用しない時代になったのです。一方で、社会人入試など、年齢にこだわらない入学が増加しています。
自分にあった学び、本当に学びたい学びに気づいてから、大学や専門学校に入学しても遅くない、新しい学びの時代が到来したのです。
会社の状況も、だれもが正規の社員になれる時代は終わり、非正規社員での採用が主流となりました。
かつては、良い学歴が、良い会社と良い生活に直結すると言われましたが、グローバル化という経済変動の中で、親世代とは全く逆に、ほとんどの若者が、非正規社員とならざるを得なくなったのです。
「正社員」の肩書きを保証されない時代に、正社員にこだわり続けることは、時代錯誤に他なりません。
学歴主義・会社主義は、「マイナス思考」と見なすことが可能になりました。働き方にも、新しい精神とスタイルが登場したということができます。
時代状況が、ひきこもり当事者も家から出さえすれば、一般の若者と大差なく見えるようにしてくれたのです。
学歴・会社が、セイフティ・ネット(安全弁)でなくなった現在、それをどこに求めれば良いのでしょうか?
「自分自身にとっての最大のセイフティ・ネットは、自分自身である」と言えます。
形式ばった古い価値観にとらわれないで、あるがままの本音を探り当て、自分の適性や能力を生かすこと、それが今からの時代と社会を生きていく上で、最良の方法です。
居場所・親の会などは、そのための格好のスタート地点と言うことができます。
フロイトは、「人の人格は、社会規範と、個人の本能と、両者を調整する自我からなる」と述べていますが、社会規範が動揺する時代は、「自我」もまた動揺して見失われがちになる時代です。
「失われし字がを求めて」(ロロ・メイ)生きる視点からすれば、ひきこもりもそうでない若者も親も、「みな同じ地平に立っている」と言うことができるのです。
若者の混乱を「若者の変容」にすぎないとすることは、「総中流社会」という色眼鏡の効かせすぎと言えます。
若者の世界に起きているのは、親世代と同じ生き方が通用しない時代状況に放り出されて、どのように生きたら良いか、どのような社会的役割が可能か、だれとどのようにパートナーシップを組めば良いかといった、同一性(アイデンティティ)をめぐる葛藤・混乱に他なりません。
これは、エリクソンの言う「自己同一性」をめぐる混乱そのものです。フリーター・ニート・ひきこもり・パラサイトから、パーソナリティ障害・摂食障害・薬物依存症に至るまでの若者の病理現象の背後に、「同一性の混乱」を見い出すことができるのです。
中垣内 正和(著)『ひきこもり外来』から要約しました。
2008年10月3日金曜日
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